古典主義美学

その夕方、私とフォルスは、テレビを見ながらデパートの折り詰め弁当を食べていた。
正確に言うと、フォルスはテレビを見ていたのかもしれないが、私はテレビが好きではないので、食べるほうが主眼である。

年末とあって、番組は、田舎の餅つき大会を中継している。大勢の男衆が、ふんどし一枚で杵をとり、大きな臼を囲んでつくのが、その地方の風習らしかった。
よせばいいのに、食事しながら画面を見ていたらしいフォルスが、突然顔をしかめて言った。

「うわ〜、オッさんの汚いケツばっかり映すなよ〜」

その言を聞くや、弁当箱に突っ込まれた私のアタマには、ふと、ある想念が浮かんだ。

「オッさんのケツ、というのは、はたして、存在的に汚いもんなのだろうか？」
「……はぁ？」
「この世に存在するありとあらゆるオッさんのケツは、ただそれが『オッさんのケツ』であるというだけの理由で、汚いもんなのだろうか。君は、この現代社会にあって、いまだに古典主義美学のヒエラルキー的世界観にとらわれていないかね？」
「どうでもいいけど、お箸で人を指すのはやめなさい、行儀の悪い」

どういうわけか、私がこういうまっとうな問題提起をするたびに、夫は、「出たな妖怪」とでも言わんばかりの視線を向ける。
よろしい、私だって百も承知だ。世間なんて、いつだって無理解なもの。これでくじけていては、テツガクの徒などやっていられない。

そこで私は、お箸を他人に向けるのはやめ、再度の注意を避けるべく、口にものを頬張りながら話さないように気をつけながら（見ろ、私にだって常識はあるのだ）、美学に疎いフォルスに向かって、美学史の解説をしてあげることにした。

まだ「神が実在する」と思われていた欧州の古典時代、つまり前近代においては、絵画・芸術の題材となる対象の、美醜、尊卑、善悪といった属性は、対象そのものの内に宿るとされていた。
この世のあらゆる事象には、神の摂理によって定められたヒエラルキー（階級、階層のこと）があり、美学もそうした世界観に倣っていたのだ。

こうした美学の下では、もっとも高貴かつ美しく善きモデルは、キリストであり天使であり聖人であり、もっとも卑俗かつ醜いモデルは、排泄物であったりオッさんのケツであったりするだろう。
どれほど優れた画家がどのように描こうと、天使は美しく清らかで、オッさんのケツは醜く汚い、ということになっていた。
題材すべてに定まった属性があるとなれば、対象の「色」もまた、固有のものである、ということになる。光の度合い、季節の如何、昼夜の別を問わず、誰がどのように見たところで、白いものは白く、黒いものは黒い。赤いものは赤いし青いものは青いのだ。

この「対象には、あらかじめ固有の属性が与えられている」といった美学的観点を、決定的に覆したのが、印象主義運動だといわれている。
身近で日常的な事物に宿る美、市中の風俗に宿る美、そして何よりも、対象は表現者のとらえ方によって変化すること、モノには固有の色などなく、光と空気の流れによって、さまざまにその姿をあらわすことを、印象派の画家たちは描きだしてみせた。
そうして、このような美学的態度は、色彩学や絵の具の加工技術の発展とあいまって、その後の芸術にも、大きな影響を与えている。

現代美学の観点からいえば、たとえそれがオッさんのケツであろうと、表現法によって、美しくも醜くもなり、リアルにも幻想的にもなるはずだ。「オッさんのケツ＝汚い」としりぞけてしまうのは、あまりに固陋な美意識ではなかろうか。何よりもまず、オッさんのケツには、はたして、必ず「汚い」という属性がつきまとうものかどうか。

例えば、ある種の同性愛者にとっては、オッさんのケツは、むしろセクシィでラブリィでスウィティなものではないのだろうか。そうした視点をもった画家が描けば、また、そうした視点に共感しうる鑑賞者の目から見れば、これらオッさんのケツは、魅惑的で官能的な美をも備えうることが、わかりはしないだろうか。

ここまで話したとたん、間髪を入れずに、フォルスは言った。

「なら、今すぐテレビの画面、見てごらん！ひとつでもきれいなケツがあるかどうか、探してみなさい！」

言うまでもないことだが、私は、断じて弁当箱から顔を上げたりはしなかった。